「ソフィーの世界」から、宇宙人の世界観まで。
地球と人間を救えるものは哲学しかない。
(T)
『ソフィーの世界』へ入る前の、ちょっと一言
この本を読みながら、なにか気がつくままに感想を記してみたいと思っている。
そこで、読む前に自分の考えを少し書いておきたいと思う。
私は物事を考えるとき、できるかぎり客観的に、現実的に考えるよう努力している。主観と、観念には陥りたくないと、いつも願っている。
物事を考えるとき、その思考が主観的、観念的であっては、いくら真面目に考えを尽くしてみても、客観的で現実的な答え(真の答え)に到達することは、ありえないだろうと思うからである。
私の場合、昔あるきっかけで読んだ宇宙の話の本が、大いにその助けとなっている。
自分が住んでいる宇宙の営みの様子、宇宙が生まれる様子、銀河が生まれるようす、その中で太陽が生まれ、やがてその生涯を終えるまでの様子など、その一つ一つの話を読み進むうちに、鳥肌が立ってきたのをおぼえている。
宇宙は宇宙の営み方(法則)だけによってのみ、宇宙のすべてが相互に関り合い、営まれていたのである。
厳密には基本的な(いくつかの)力だけですべてのことが、相互に関わり合っていたのである。その基本的な力以外に、宇宙の営みに関わることのできるものは、なにもなかった。それを知っただけでも主観と、観念から遠ざかるのに充分な助けになっている。
それでも、よりその確信を強めるためにもあえて、次のような本を何冊か読んでみた。
地球の本、オパーリンの生命の本、ダーウインの進化論、フロイトの深層心理の本、パブロフの大脳の話と各種反射の話の本、そしてすべての“物質”の元になっている素粒子の本、但し、これらの本を読んだとはいっても、それぞれの分野の専門知識を得ることを目的として読んだのではないので、読んだあと、細かいことはほとんど忘れてしまっておぼえていない。
もともと、それぞれの分野の、それぞれの営みを、何が司っているのか、それを知りたかっただけであるから、こまごまとした専門知識はいらなかったのである。
書いてあることを一つ一つ、ひと通り理解できればそれでよかった。
とは云っても、どの本を見ても専門用語ばっかりで、予備知識のない自分には、一冊なんとか理解できるまでには、かなりの時間がかかった。
くり返し、くり返し何度も読み返さなくてはならなかったので、一冊が読み終わるまでには何ヶ月もかかっていた。時には“素粒子”の時のように、同じ、素粒子の本を、2,3冊、一年以上もかかって読むこともあった。
それでも、しんどいとか、つらいとか思ったことは一度もなかった。それよりも、一冊、一冊読むうちに少しづつでも理解できてきて、自然の営みのしくみが分ってくると、背筋がぞくぞくしてきて、毎日興奮しながら読んでいたのをおぼえている。
そして、一通り読み終わって感じたことは、自然の営み方について、以前にも増していっそう強く確信を持てたことであった。
自然は法則によって支配されている。もし、この世に悪魔や、神仏があったり、生き物から離れて霊とか、心そのもの自体が存在していたり、また、“価値”とかいうものが、真に存在するものであるならば、それまで、そのようなものは、観念の世界だけにのみ存在するものとばかり思っていたものが、そうではなくなるのであるから自分の考え方も、おのずと、視線を大きく変えなければならなくなるからである。
しかし、結果は自分の予想していた通りであった。
自然界には悪魔も、神仏も、霊なるものも、また、“価値”なるものも存在しなかった。存在し得る仕組みにはなっていないのである。
自然は自然界の基本的な4つの力(強い力による相互作用、弱い力による相互作用、電磁力による相互作用、重力による相互作用)によってのみ、支配され営まれていた。ほかのどんな力も作用も関わってはいなかったし、関われることができるものではなかったのである。
前に上げた本の、どの分野についても、書かれている内容は、各々専門の学者が行った研究の結果が、客観的事実として検証され、実証されて、認められているものばかりである。
それらの本を読んで私は、自分がたどりついた結果(世界を見る物差し)を97%の自信を持って確信している。
あとの3%は、自分自身で研究したものは何一つ無い、という負い目だけである。
以後これを自分の思考規準、物差しとして、この本も読んでいきたいと思う。
私の思考規準の具体的な詳細については、読むうちに一つ一つ気付くことについて、コメントする中で紹介していきたいと思っている。
1996,7,20
(U)
『ソフィーの世界』に入ってからの、ちょっと一言
私は、700万年前アフリカで誕生して今、人間共通の世界観を探している。
最初この本を読むまでは、各章ごとに感ずるがままに、何かコメントを書いてみようと考えていた。それがいざ、読み始めてみると、この本は、単なる西洋哲学史であることに気がついた。
本を手にするまでは、きっと、著者自身の哲学も書かれているものとばかり期待していたので、本を開くとき、少し構えていただけに拍子抜けしてしまった。
それでも、いつか著者自身の考え方が出てくるかもしれないと、少しまってみようと、読み続けているうちに、いつの間にか終わってしまっていた。
そこで、読み終わってからの、全体の感想に変えたいと思う。
全体の感想といっても自分に興味があったのは、哲学の部分だけである。ミステリー小説の部分については面白かったというだけで、それ以上の興味はなかったので省かせてもらうことにした。
1 自然哲学
さて、古代ギリシャにおいて、ソクラテスまでの哲学は、厳密には哲学ではないと思う。
草木や動物や、土や、水や、季節や自然現象や、天文など、自然について熱心によく観察し、そこから自然の根源や、本質を見つけようとしている。これはまさに科学であって、哲学とは思えない。
次に、彼らが行った、自然観察についてみてみると、自分達が見たままの観察水準が、それだけで自然のすべてでもあるかのように勘違いしている。
そこから単純に答えを出そうとしているが、その程度の科学の水準で、自然の根源や本質が分かるものではない。ほとんど主観の世界である。
2 ソクラテス
『ソフィーの世界』では、ソクラテスが始めて自然についても、人間についても哲学しようとした人のようである。
ソクラテスは、自然哲学はしなかったそうであるが、私は多 少なりともしたと思う。しかし、最終的には、したけれどもできなかった。答えが見つからなかったのであろうと思う。
ソクラテスは、誰よりも自身を律することができ、自分に正直であることができた人ではなかったかと思う。
それゆえに、自分がいかに無力で、無知であるのかを、知ることができたのであろうと思う。
当時の知識水準であれば、科学に関わらず、何事についても素直に「なぜ」をくり返していけば、たちまち、壁に突き当たって、分からなくなってしまうであろうことは、容易に想像がつく。
ソクラテスは、それを誰かれなく説いてまわったのだと思う。
当時の知識水準では、何事についても自分は知っている、分かっていると、思っていることでも、実際にはいかに根拠も無いことを、真実でもあるかのように思い込んでいることが多いことか。
そして、その思い込みから引き出された答えまでもが正しいものと、思い込まれていることが如何に多いことか。
ソクラテスは、それを説いてまわったのだと思う。
それで、ソクラテスは「自分たちの知識の確かな基礎を固めることが重要だ」と、云ったに違いない。
3 ソクラテス後の哲学
ソクラテスのあと現在に至るまで、何十人もの哲学者が見られるが、誰一人として、主観と、観念の域から抜け出している人がいるようには見えない。
2500年を経て今だ、主観と観念の域から抜け出ている者が誰一人としていない。
私は、これについてはひょっとして、客観と主観の間には、自然科学一般に関わる知識量と、その認識に、どこか関係があるのではないかと思っている。
哲学に限らず、何事についても、思考するときその思考の基となり、よりどころとなる、必要最小限以上の、科学的知識がなければ正しい答えは見つからないであろうと思っている。
そのよりどころとなるものが、客観的事実として検証され、実証されている、多くの自然科学一般知識である。
今や、人間の自然科学全般の知識は、哲学に要する必要最小限以上の水準にある。
しかし残念ながら、その自然科学の世界を全般的にわたって、目を通してみようとする哲学者は見られない。残念なことではあるが、自然科学の世界に足を踏み込むこともなく、せめて見学だけでもよいから、踏み入れてみようとすることもなく、素通りしていきなり哲学では、2500年前から何ら変わるところがないであろう。
それでは、いつまでたっても主観と観念の域から、決して抜け出すことはできないだろう。
だからといって、必要最小限の自然科学一般知識を身に付けたからといって、そしてそれをよりどころとして、何かを哲学したとて、必ず、真の答えが見つかるという保障があるわけでもない。が、しかし、少なくとも見つかる可能性が大きいであろうことは確かであろう。
何よりも、主観的、観念的思考に陥ることは少なくなるだろう。
しかし、残念ながら今の人間にはもはや、真の世界観を見つけることなど、無理な話に思えてならない。
今になっては、人間は、あまりにも驕りが強くなりすぎてしまっている。また、何千年にもわたって、生活の中に染み付いてしまった、価値観をはじめさまざまな、人間を中心とした既成概念は、どうにもし難いまでに体の芯まで染み込みすぎてしまっている。
こうなってしまっては如何ほどであれ、自身を律することも、正直で素直であることも、望むすべもないことである。
4 ソクラテスと自然科学
そこで私は、いっそ、ソクラテスに真の世界観を見つけるための手助けをしていただいてはどうかと考えてみた。
もし今、ソクラテスがいたら、きっとできるに違いないと思う。
現代の科学水準は、2500年前とは全く違う。今や自然科学全般の知識は、哲学に要する必要最小限の水準をはるかに越えている。
ソクラテスならまだ、今の人間ほど世俗に毒されてはいまい。
それに彼は、徹底して自分に正直で、自身を律することができる。しかも、限りなく素直でありうることができる人でもある。 だからこそ、彼が自然科学一般の必要最小限以上の知識を得ることができさえすれば、きっと真の世界観を見つけることができるに違いないと、思うのである。
しかし、今ここに、ソクラテスに出てきてもらうことなどできるわけでもない。それならば、と、こちらから2400年前にさかのぼって、想像(アニメ)の世界へと入ってみてはどうかと考えてみた。
そして、必要なだけの科学的知識は、ちょうどそのころ、地球に来ていた宇宙人にお願いすることとした。
そのとき地球に来ていた宇宙人は、当然のことながら、今の人間と同じかそれ以上の科学的知識を持っていたはずである。 事情を話すと宇宙人は快く引き受けてくれた。
教えてもらう科目は、もちろん自然科学全般にわたってである。
自分自身が住んでいる環境(自然界)全般について知らずして、正しい世界観など見つけられるわけはないからである。
その意味では、古代ギリシャの自然哲学は、姿勢としては共感できるものがあるのではあるが、なんとも如何せん、科学も哲学も、当時はまさに始まったばかりの時代のこと、その科学的水準は、とうてい物事を客観的に思考できるほどまでには達してはなく、あまんじて主観と観念の世界に、足を踏み入れてしまっていた。と、いうことである。
それはさておき、思うに、宇宙人がまず、ソクラテスにした講義は、万物の根源に関わる素粒子についてからであったに違いないと思う。
講義は教わる量と、宇宙人のスケジュールの都合で、1日12時間の1週間と、少々厳しい時間割が組まれていた。
素粒子の話の次は、その素粒子も、地球も、太陽も、銀河もすべてのものが属している宇宙についてであった。
宇宙の話の次は、地球の話であったに違いない。その方が、話を続けやすいからである。地球の話では、地球の誕生から現在に至るまで、地質、生命、生物、人間と、地球に関わるすべてのことが語られた。人間が何処から来たのかもここで教わる。
次に、少し一般物理と、化学も教わり、最後に、人間も含めて生き物の神経と脳の働きと、心理学について教わった。
教わる方が一人なら、教える方も一人であった。が、一週間後、最後の講義が終わったあとも、宇宙人には全く疲れた様子は見られなかった。
地球人の能力についてはよく知り尽くしているらしく、下をむいて、まだメモを取っているソクラテスを見つめながら、やさしく笑っていた。その宇宙人の目には、この一週間、ソクラテスの能力と、頑張りに対してある種の賞賛と、敬意と親しみと、満足の色が漂っていた。
そして、こう言った「さあ、終わった。これで哲学に必要な必要最小限の科学的知識については全部話した。これだけ知っておれば、いかなる問いに面しても、理解できないものは何もないだろう。
かといって、何でも知っているから、なんでも理解できるからといって、どんな問いに対しても必ず真の答えが見つかるという保証はない。でも、少なくとも、主観や観念の世界に迷い込むことだけはないだろう」
5 ソクラテスの世界観
聞きながらメモを取っていたソクラテスは、書き終えるとペンを持ったまま、ゆっくりと顔をあげて、生徒が好きな先生を見るように、笑みを浮かべて宇宙人の目を見つめていた。
そして、すぐに、難しいクイズの答えが解けたかのように、こう言った「自然は宇宙のいかなる場所の、いかなる事象についても、全く同じ法則によって支配されている」
現代人であれば、これぐらいのことは、高校生程度の知識があれば、たいていの人には分からないことではない。
ひょっとすれば、小学生でも科学に興味のある子であれば、理解できる子は少なくないと思う。
で、ソクラテスは、次になんと言ったのだろうか。論理的からにして、おそらくこう云ったに違いない。
「従って、すべてのことが、あたりまえである」と、いきなりそう云われると、一瞬、なるほどと思わんでもない衝動に駆られてしまう。
宇宙人は「その通り」とは云わずに「なるほど」と、云った。
次に出てくる言葉を興味深く待ちかまえていると、すぐに続けてこう云った。
「すべてがあたり前ということは、すべてがそうあってあたり前、そうなってあたり前であるということである」
それは先ほど言ったことと同じことじゃないか。と、見ていると、宇宙人が「それで!」と、その次を促した。
ソクラテスは、視線を宇宙人から、左の掛け時計に移した。左脳を使いながら「即ち、すべての存在するものは、存在するがままに、存在するべくして存在しており、すべての現象は、なるがままに、なるべくしてなっているのである」と言って、また宇宙人のほうを見た。
これはちょっと即断的に感じないこともないが、もし、自然界がソクラテスの言うように、“法則によって支配されている“と、いうことが事実であるならば、なんとなく“そうかな”と、思わないでもない。と、考えていると、宇宙人はまた「なるほど!」とだけ言った。宇宙人にはもう、ソクラテスの言おうとしていることが全部、分かっているかのように見えた。
ソクラテスもそんな宇宙人の気持ちを感じとっているらしい。ひょっとして、ソクラテスは期待通りに、真の世界観を見つけたというのであろうか。
ちょっと間をおいてから、自信ありげな声で「である、ということは、悪魔も、神も、善悪も、きれいも、きたないも、よいものも、よくないものも、そのほか、一切の価値を意味するものも存在しない。と、いうことである」と、何か大発見でも発表するかのように、すこし興奮気味で言った。
宇宙人も彼に合わせてちょっと大げさに「そうか!」と、言った。
今では神や、悪魔を信じない者は、少なくはないが、それにしても、善悪や、価値観までも“無い”とはどういうことか。人はなにをしてもよい、と、いうことか。法律も警察もいらんということか。と、一瞬パニックになりかけていると、続いて力強くきっぱりと、こう言った。
「ということは、人間も含めてなにものも、何を云おうと、何をしようと、かってであるということである」と。
宇宙人は、先にも増して、オーバーにまた「そうか!」と、言ったがその目は「よし!」と、言っているようであった。私は「やっぱり!」と、思いながら、そんな世の中になったらどうなるね。秩序もなにもあったものではない。むちゃくちゃになってしまうやないか。と、目をむいていると、すぐ続けてソクラテスはこう言った。
「ただし、“かって”ということは、確かに何をしょうとかってではあるが、ただ単に、かってであるというだけのことであって、決していかなることについても、許可や、権利や、自由を意味するものではない。ただひたすら“かって”と、云うだけのことである。いかなる法律の制定も、いかなる秩序の維持も、また、かってであるのであるから」と、言ってソクラテスは、一息ついてから「以上、これが自然(宇宙)の本質であり、万人共通の世界観であり、そしてまた、人生観でもある」と、言ってから、ソクラテスは、先ほどまで自分が宇宙人に話してきたことを、もう一度思い出しながら、ひとり言でもなく、自分に言い聞かせるでもなく、声にならないほどの声で、時には上目づかいに、時にはうつむき、目をとじて、一言、一言かみしめるようにくり返していた。
「自然は、全宇宙共通の法則によって支配されている。どんなことでも法則と関わらない事象はありえない。絶対的にありうることができない。いかにささいなことであれ、例外がありうることはない。従がって、すべてのことが、そうあって当たり前、そうなってあたりまえなのである。
存在するものはすべて存在するがままに、存在するべくして存在している。同様に、すべての現象も、なるがままになるべくしてなっている。(そして、このつぎがこの考え方のもっとも重要な点であるが)で、あるから自然界の法則の中に、他のいかなる摂理もかかわり入ることはできない。と、いうことは、悪魔も神も、醜いも、美しいも、よいものも、よくないものも、そのほかいっさいの価値を意味するものも、実際には存在しないと、いうことである。なぜなら、これらのすべてが人間の観念から生じているものであるから。と、云うことは、人間も含めて何ものも、何を云おうと、何をしようとかってであるということである。ただし、“かって”と言うことは、ただ単にかってである、と、いうだけのことで、決して、いかなることについても、何をしても良い。と、いう許可や、権利や、自由を意味するものではない。ただひたすら純粋に、“かって”と、いうだけのことである。逆に、いかなる法律の制定も、いかなる秩序の維持も、また、かってであるから」
繰り返して言い終えるとソクラテスは、満足げに一人でうなずきながら、入りこんでいた自分の世界から、現実の世界に帰って宇宙人のほうを見た。しかし、そこにはもう、宇宙人の姿はなかった。そればかりか、講義に使っていたパソコンも、ハイビジョンスクリーンもホワイトボードも、壁の掛時計も、その部屋から消えていた。
照明までもがなくなっていて、松明の薄暗い部屋には大きな木製のテーブルの前に、ソクラテスだけが座っていた。
ソクラテスは、宇宙人の忙しいことをよく知っていたので、あえてさがそうとはしなかった。
あとを追ってみても、宇宙人はおそらくもう地球にはいないであろう。
ソクラテスは宇宙人に教わったことを一つ一つ思い出していた。宇宙のこと、素粒子のこと、地球のこと、脳の働きのこと、そうしているうちに、また自分の世界へと入り込んでいくのであった。
「法則が、全世界を支配している。いかなるものも、その“法則”を支配することは絶対できない」
「従って、すべてのことがあるがままに、なるがままになっている。・・・・・これは自分だけの世界かも知れんけど、絶対に真実や」ソクラテスは、この夢のような発見を一時もはやく、みんなに知らせたいと、思った。
もしこの考え方が、世の中に理解されれば、争い事が無くなるし、難民も無くなる。また、貧富の差も無くなって、世界中に平和が来る。と、考えた。
そう思うと、いてもたってもたまらず、すぐにでもアゴラの広場に出て行って演説しなければ、と、思った。
しかし、ソクラテスは、一度椅子から立ち上がったものの、すぐまた座ってしまった。そして考えた。町の誰にも資料がない、知識もないのに無理な話や。いくら説いても、通じるわけがない。
紀元前400年の世界では、たとえこれから本を書いて説いてみても、内容のほとんどが、夢みたいな話ばっかりや。同じく、内容のほとんどが、実証することも、検証することもできないことばっかりや。信用を得られるわけがない。哲学者より魔法使いにされてしまう。
だいたい、何をしょうと“かって”とは、現実とあまりにもギャップが大きすぎる。そうつぶやいて、ソクラテスはみんなに知らせることをあきらめてしまった。
その後、何年かしてソクラテスは、自ら毒をあおったのである。
真実かどうかは別にして、どうやらソクラテスは、期待通り宇宙人保障付きの世界観を見つけてくれたようである。
しかし、ソクラテスの世界観は、2500年前の社会ではなおさらのこと、今の世界でも、あまりにもギャップが大きすぎて、実用的であるようには思えない。
現代の世の中でさえ、あまりにも日常の生活習慣と、かけ離れすぎているので、一人でも、理解を得られそうな人が、いそうには思えない。
第一「何をしてもかって」と、いうような、こんな危険な考え方、真実かどうかも分からない。
6 哲学の世界
それから2500年、『ソフィーの世界』(哲学)は、今もかろうじて続いているようである。
この俗された世の中にも『ソフィーの世界』の世界に、興味をいだく人の数が、思ったより少なくないとのことである。
しかし、いくら沢山の人が興味を持ったとしても、ただ遠くから眺めているだけではソフィーの世界は、なにも見えてはこない。
さりとて、近づいて見たからとて、さらに中へと、踏み込んでみたからとて、さらにもっと、はまり込んでしまったからとて、それだけで簡単に、ソフィーの世界が見えるものでもない。
それにしても、せっかくソフィーの世界に興味をひかれる者がいるというのに、ソフィーの世界が見えないようでは何の意味もないだろう。
ソフィーの世界に一歩でも、足を踏み入れたことのある人なら、一人でも多くソフィーの世界が見えるようになればと思う。
実際には、ソフィーの世界に興味を持つ人の中でも、ソクラテスが宇宙人に学んだ、必要最小限の自然科学一般の知識を持つ人など、ほとんどいないのではなかろうか。
ソフィーの世界が、はっきり見える人など誰もいないのであろう。
おそらく、ソフィーの世界に興味をひかれた人のほとんどが、ソフィーの世界は日常社会とはどこか違う別の世界であることを、なんとなく感じ取っているだけのことではないのかと思う。
言いかえれば、ソフィーの世界を自分の脳に、はっきりと、鮮明な画像として映し出すことのできるソフトを入力済みの人は、一人もいないであろうということである。
7 哲学の世界が見えるソフト
そう、ソフィーの世界を見るにはそのためのソフトがいる。ソフトはCDでもFDでもなんでもよい。
しかし、残念なことには人の脳には自動読取装置がついていないと、いうことである。
ソフトを買ってきてセットさえすれば、それだけで、入力できてしまうというパソコンのようなわけには行かないのである。
人の頭に新しいソフトを入力するには、CDを使うにしても、書物を用いるにしても、マニュアル(手作業)で、ソクラテスもしたように、自分自身が直接目から入力しなければならないのである。
いい遅れたがソフトの内容は、ソクラテスが宇宙人から教わったものと同じものでよい。(宇宙、地球、素粒子、生命、心理学、大脳)
入力の順番は何処からでもよい。宇宙人は、ソクラテスに素粒子の話から初めたが、普通は宇宙の話から始めるのが無難かも知れない。面白い話がいっぱいあって取り付きやすい。何処からはじめても、宇宙の次は地球の話にして欲しい。そのほうが、自然に話が続いていて分かりやすい。
どの科目も大切であるが、特に素粒子の話だけは、いかに面白くないから、とはいえ、絶対に捨てないで欲しい。熟読はいらないから、せめて素粒子の性質と、素粒子同士のかかわりあい方(相互作用)だけは見といてほしい。
入力の内容は、まるまる、なにもかも全部は要らない。各科目の専門家になるわけではないから専門知識一つ一つの入力までは要らない。
各科目ごとに、それぞれの分野で学者が研究に、どんな工夫をして、どんな発見をしたのか、その詳細な内容は聞き流すだけでよい。大切なのは、それぞれの科目ごとに、その科目の世界を司っているものは何なのか、その司っているもの(本質)をつかんで入力することである。
ヒントはソクラテスの見つけた世界観にある。(自然は法則によって支配されている。であるから、あるがままにあり、なるがままになっている。であるから、一切の価値を意味するものは存在しない)
ここで、ことわっておかなければいけないことは、全科目に一通り目を通したからといって、必ず、誰にでもソフィーの世界が見えてくるというものではないと、いうことである。
本質をつかまなければ(理解できなければ)なかなか見えてはこない。
だからといって、ここで新しいソフトの入力作業を、怠るようでは百%ソフィーの世界を見ることはできない。
その人に見えるものはいつまでたっても、はじめに観念と、主観をとおして見た、ぼんやりとした外側の輪郭の世界だけである。
とにかく、先に挙げた全科目を最後まで読み通せれば、たとえすぐには本質がつかめなくとも、いずれは理解できるであろう何%かの可能性は残る。
何はともあれ、まず、全課目に目を通して見ることである。
本質がつかめるかどうか、今以上に世界が見えるようになるかどうか、それはあとのことである。
本質をつかめる人もいれば、つかめない人もいるだろう。いつかつかめる人もいれば、一生つかめない人もいるだろう。
それは一人一人個人差のあることやから仕方がない。
しかし、全課目、目を通したことは決して無駄にはならないだろう。そこで得た知識が、たとえ広く浅くであっても、自然科学全般にわたって知っているのと知らないでいるのとでは、ものの見方に大きな違いが出てくるはずである。
少なくとも、主観的に、観念的に思考することは少なくなるだろう。
そして、もしいつか、自然の本質をつかめれば、その時、ソフィーの世界(哲学の世界)も見えるようになるだろう。同様に、その時、ソクラテスが見つけた世界観も理解できるようになるに違いない。
それは宇宙人保証付きの世界観であるから、きっと、真の世界観であると思ってもらえるように、併せて願いたい。
8 哲学が人間と地球を救える
さて、一方、今や地球は環境問題、人口問題、森林破壊、生物の種の絶滅、気温の上昇、産業・軍事廃棄物、経済格差、民族紛争、都市型社会の荒廃、そのどれ一つをとっても悪い方へと進んでいる。
それに対して、どの国の司法も行政も、地球を守るには欠陥が多すぎる。
また、政治もその欠陥に対応できるだけの、純粋さも、純真さも、誠実さも、持ち合わせているようには見えない。全くその気がない。政治はまだそういうレベルには達していない。
それを科学技術で救える部分は、ごく一部でしかなく、しれている。
それを全部まとめて救えるものは哲学しか無い。しかし、残念ながらその哲学も、真の答えはいまだに見つかっていない。
哲学の真の答えは、科学界で時々見られる、大発見や、大発明のように、世界中の人が両手を挙げてバンザイを叫べるような単純なものではない。
科学のように、具体的に成果が目に見えない思考分野の哲学は、たとえそれが真の答えであっても、社会に広まるまでには一人一人の心からの理解が前提となるので、300年か、500年か、1000年か、広まるまでには時間がかかる。
でも、いったん理解されて広まれば、そのあとは、加速がついて世界中の人々のあいだに自然に意思の疎通が生まれてくるだろう。真の答えが見つかっても、哲学とはそういうものであろう。
でも、何べんも云うように、真の世界観は、必要最小限の科学的知識が無ければ見つけられない。
今の人間が得ている科学的知識は、その必要最小限の知識をはるかに超えているほどあると思うけど‥‥‥
人間どこまでできるものやら、できないものやら。
9 ソクラテスのあきらめ
ここでまた、ソクラテスの二度目のぼやきが聞こえてきそうな気がする。
「科学も進んだが、人間社会が抱える問題は、種類も数も増えていっそう複雑にからみあっている。
テレビは朝から晩までバラエティ−でバカ騒ぎしている。朝から夕方までどのチャンネルも、週刊誌のテレビ版、どう見ても人間がしていることのようには見えない。
夜は夜で、ニュースは一瞬、毎日ここでも飽きもせず、世の中ここより面白い場所は他に無いかのように、各局競ってバカ騒ぎしている。
一方、民族紛争では、互いに武器を抱えてにらみ合っているか、もうすでに何10万、何百万人も殺し合ってしまっているのに、まだ争っている。それによってこれまた、何百万人もの難民が発生している。その結果、一日に何万人もの人が、貧困による、病気と、飢えで死んでいる。
毎年、四国ほどの広さの緑が無くなって砂漠が広がっている。川も、湖も海も、水の汚れは増し、大気も、雨も汚れて木を枯らし二酸化炭素も世界経済の成長に合わせて増加して、気温を
上昇させつづけている。オゾンホールも拡大している。
都市型社会の人の荒廃も、なすすべを知らない有様である。
これらの全部が、とどまることを知らずに加速している。
人間の欲望はどうにもとめようがないようである。こんな人間社会の状況下ではたとえ真の世界観が見つかっても、もう手遅れのような気がする。
毎日毎日、ほとんど浪費だけのようなワイドショーや、バラエティーショーばかり作っている人達や、そんな種類の番組ばっかり見ている視聴者になにが通じるだろう。
武器を持って毎日、人間同士殺しあってる人達になにが通じるだろう。
貧困と飢えで死と隣り合わせの難民の人達に、“世界観”なんて何の意味があるだろう。
日常の生活や、経済や、欲のために川も、湖も、海も、大気も、地下水までも汚している人達に、何が通じるだろう。
もはや、すべてが遅すぎている気がしてならない」
ソクラテスのボヤキが終わったところで、たとえ漫画の中の世界であっても、もしソクラテスが出てきていて、今の世の中を見ていたとすれば、なにも聞かず、なにも語らず、さっさと、もといたアテネの世界へと帰ってしまったに違いない。
取材に来ていたリポーターの「ソクラテス先生!何か一言、お願いしまーす!」との必死の食い下がりにも、振り返りもせず「あんさん、長生きしなはれ」と、言って消えていくに違いない。
さて、人間ならどうする。
1996,9,26
あとがき
これを書き終わったあと、これを読んでいただいた人にはあらためて、ソクラテスが宇宙人から教わったのと同じだけの本を、読んでいただくなんていうことは、ちょっと不親切かと思いまして、簡単にでも全科目について要約できればと思ったのですが、いざ、図書館で取りかかって見ますと、今の私にとってはそれほど簡単なことではありませんでした。
ほんのわずかとはいえ、初めて自分の考えを、文章にまとめようとしてやっとのことで書き終えたところです。まだ気力の回復も、気持ちの落ち着きも無く、要約までは到底手におえませんでした。
しばらく時間をおいて落ち着けば、もう一度再挑戦してみようかな、と、思っているしだいです。
それにしましても、このまま、なにもしないで終わってしまうのはやっぱり残念です。少しでも、何かできることは無いものか、と、しばらく図書館の中を歩いていますと、おあつらえ向きのものに出合うことができました。
それは『ニュートン』という、科学雑誌です。ご存知の方もおいでかと思いますが、月刊誌で、毎号自然科学全般にわたって最新の情報が満載されています。
私にすればちょっと手抜きになってしまいますが、とりあえず、4・5冊も見ていただければ、下手な要約よりずっと、自然の本質を実感していただけるのではないかと思います。
書店で買っていただいてもよろしいのですが、これからですと、4・5冊揃うまでにはそれなりの月日がかかってしまいます。
古本屋さんでまとめて買うのも一つの手ですが、手っ取り早く確実なところとして、図書館を利用していただくのが一番ではないかと思います。過去のも一緒にまとめて置いてますので、興味のあるテーマを自由に選ぶこともできます。
そして、何冊か借りて帰ってゆっくり見ていただければいかがかと思います。
この科学雑誌は、ミクロからマクロに至るまで、最新の情報をやさしく、解かりやすく、解説されています。
次々と、新しい発見が紹介されていて、単に見ているだけでも自然の迫力に圧倒されてしまいます。いやでも科学(自然)の世界とはどんなものなのか感じ取れてきます。
いかに自然は宇宙のすみからすみまで、また生命の細胞からその構成物質まで、自然の法則による営み以外に、いかなるものも関わることができないか(事実いかなるものも関わってはいない)見ているうちに、それを感じとれてきます。それが自然の本質です。実態です。自然は絶対的に自然の法則によってのみ支配されています。
従って、全てのことが当たり前として、時間とともに移り進んでいっているのです。・ ・ ・ ・ ・そして、このあとソクラテスが見つけた世界観へと続いていきます。
ぜひ一度、書店で手にして開いてみてください。
本当におもしろいですから、すごいですから。
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